日曜の朝は、空気がやけに澄んでいる気がする。
車の音も、隣の部屋の生活音も、すべてが少しだけ遠くで鳴っているような。
まるで世界が、ぼくの存在をそっと避けて動いているみたいだ。
平日の朝は、たとえ無職でも、どこかに「時間の流れ」を感じる。
外に出ないまでも、社会が動いている気配がある。
コンビニの袋を提げたサラリーマン、子どもを送る母親、家の前を横切る誰かの足音。
それが、まだ世界とつながっているという、微かな証拠になっていた。
でも、日曜の朝は違う。
誰も出勤しない。学校もない。
みんなが家にいて、静かにしている。
その静けさは、どこか「取り残された後」のような感覚を生む。
昨日までは、たしかに街が動いていたのに。
今はすべての音が消えて、自分だけがここに残されているようだ。
何かを失ったときの、あの空虚な感じ。
ぽっかりと空いた空間に、誰の声も届かない。
そんな静けさが、日曜の朝にはある。
この静けさが嫌いじゃない。
だけど、安心でもない。
「何も起きていない」のではなく、「何かが終わった後」みたいだから。
日曜日はいつも、さよならの余韻みたいな顔をしてやってくる。
カーテンの隙間から差し込む朝の光は、無音だ。
その無音に、頭の中まで吸い込まれそうになる。
たぶん、誰かと住んでいたら違うのかもしれない。
「おはよう」や「今日はどこか行く?」という声が、きっとこの部屋の空気を温めるだろう。
けれど、そんな声がないまま、陽が昇っていく。
ふと思う。
このまま何もせず、何も起こらず、誰とも関わらず、今日が終わったとして。
それは果たして“失敗”なのか、それとも“穏やか”なのか。
その違いすら、今のぼくにはもう、よくわからない。
せめて、文字にしておこう。
誰にも見られなくても、自分がここにいた証を。
今日という日も、確かに過ごしたことを。
そう思って、こうしてキーボードに向かっている。
静かな日曜の朝に、静かな自分のままでいられるように。
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